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やまなみ by Tasaburo Kimura

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戸張至聖君のヒマラヤ初登攀を祝う

 戸張君は、定年を前に念願のカトマンズでレストランを開店、以来十数年年経った。10年前に、先日亡くなった鈴木先輩ご夫妻のお供で、当地を訪ねた。その時、現在盛業中の”ロイヤル 華 ガーデン”は、開店準備に忙しかった。庭を見ると、穴を掘っている最中で、ここに露天風呂と聞いてもピント来ない。半信半疑で帰ってきた。 その後、日本に一時帰国した戸張君から、地球の歩き方・ネパール編にカラー写真入りで「露天風呂で旅の疲れをいやす」と紹介した記事を見せて貰った。いや~本当だったんだ、とその実行力には改めて感心した。 以来、最高齢は聖路加病院の日野原先生をはじめ、登山家は田部井淳子さん、野口健さん、そして我が愛する後輩のセブンサミッター島田智恵子さんなどなどに来て頂いている。 しかし、私には社会人として編集あがりで、営業経験の無い彼にとっての華の成功は立派だと思う反面、これだけで終わっては勿体ないと思っていた。 それが、ヒマラヤで誰も行ったことのないと思われる山を目指すと聞いて良かったと思う反面、独りで登ると知り心配もわいた。 最終的に、華をそして戸張君を贔屓にして下さっている小笠原ドクターと後輩の三原君も参加して3人での山行になり、やっと諸手を上げて賛成の気持ちになった。  そして、先週ダウラギリ山群のアナパティ峰に3人全員登頂の一報が入った。彼の胸中如何にか想像出来ないが、恐らく小島隼太郎先輩、鈴木弘先輩の喜ばれるお顔が過ったことだろう。僭越ながら、我が後輩戸張君を誇りに思う。おめでとう! 今日送って貰った登攀中の写真を君を知る皆さんにもご紹介したいので、勝手ながら小生のホームページの次頁に載せさせて頂く。戸張君、お許しを乞う。

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世界七大陸最高峰登頂を達成した島田智恵子さんは日本人女性二人目そして青山学院出身者でした。

左写真の島田さんは、カトマンズで戸張君が経営する「華」のお客様です。 ある日、戸張君は青山学院の卒業生の方だと知り、感激のメールが入りました。良く伺うと、大変な記録保持者でした。 今年3月、カルステンツ・ピラミッド4,884m(オーストララシア)登頂を最後に、世界七大陸最高峰をすべて登頂した、日本人では田部井淳子さんに次いで二人目の方でした。しかも、まだまだ挑戦は已みません。 昨17年6月に、ヒマラヤではエヴェレスト8,848mを登頂したばかりなのに、今年5月にマナスル8,156mを登頂さまれした。今年が日本隊がマナスル初登頂して50周年の記念すべき年でした。(写真は、「華」で戸張君撮影) その島田さん帰国早々の6月下旬に、東京用賀のご自宅そばの喫茶店でお会いしました。 嬉しいではありませんか、初対面の第一声が「戸張さんの後輩ですか?」でした。ご本人こそ、山で焼けた健康そのもののお顔は若く、大学生のお母様とは思えませんでした。 エーエルの交歓は、このくらいで・・・・・  青山学院の同窓と言うことは有難いことです。昔からの山仲間と話をしている様な感じでした。 早速、七大陸での登頂の様子を聞かせて頂きました。エベレスト、マッキンリー、そしてカルステンツ・ピラミッドの三つはロッククライミングを相当要求されたが、他は大した事は無かったと事もなげに言われ、島田さんのスケールの大きさに、圧倒されました。 実は、島田さんが学生時代にわが山岳部に入部を申し込んで断られたと言う経緯を、戸張君からのメールで聞いていました。若干後ろめたい気持ちでお会いしたのですが、何時の間にかそんな気持ちは吹っ飛んでました。  島田さんは、どこの山岳会に属さず、もっぱら独りで海外の登山専門の組織に申し込み、山に登っています。自己責任で。 昔は、ヒマラヤと言えばポーラ・メソッド・極地法登山が主流で、まるで大名行列みたいな山行だったので、夢みたいな話です。 しかし、山の危険は付き物、万一のことを考えて遺書は書いて行ったそうです。そうしたなかで、独り息子のお子さんさんが「お母さんを誇りに思う」と言われたのが、大変嬉しかった様です。 話の途中で、一本のハーケンを取り出して嬉しそうに見せて呉れました。最近登ったマナスルでの、ロマン溢れる話でした。島田さんは、他二人のシェルパ三人との登頂でしたが、高度順化中にしょっちゅう顔を合わせていた別のパーティーの登山家デニス ウルボコさんが、下山の後に「これ日本製でしょう」と言って渡して呉れたハーケンでした。確かに日本のブランドです。 50年前、槇有恒隊初登頂の時か、その後登った日本パーティーの誰かが使ったハーケンです。ヒマラヤの高所で風雪に耐え、錆びも貫禄に見えました。当時使った人が、このハーケンを手にしたらどんなに感激するか。大変な宝物です。 島田さんは更に、今回ご自身が使った酸素ボンベのビスを2個を見せて呉れました。残念ながら、私には縁の無かった8000mの高所で使う器具が、急に身近に感じられました。特に一つは、頭が傷んでおり、緊迫した中での作業が偲ばれました。 まさに、こうしたなましい登山の品々を見せて頂きながら山の話が聞けるのは、とても贅沢な気分でした。島田さんの山行は続きます、7月28日には8000メートル峰の一つ、シシャパンマを目指して出発します。その前に、カトマンズから戸張君が帰国したら、もう一度お会いしたいとお願いしました。

日付:

山小屋日誌 Mountain cabin diary

山小屋日誌

孫娘 Yui 、初めての山小屋日誌
(2009夏)

まったく山に行ったこともない孫娘が、何とインド旅行のための費用を稼ぐために、南アルプスの山小屋でアルバイトを致しました。
その小屋は北岳中腹にある白根御池小屋でした。そのために独りで、広河原から登りました。
その記録です。
小屋では高妻支配人ご夫妻をはじめ、一緒に働く皆さんに、大変お世話になったようです。
とても、とても多くのことを学び、将来の彼女の人生に貴重な体験になったことでしょう。
たまたま高妻支配人さんは、私の後輩である戸張君と懇意な方とお聞きしたので、爺馬鹿振りを発揮して電話をかけました。
高妻さんから「元気でやってますよ」と優しく言って頂き、それはそれはとても安心致しました。感謝!感謝!です。

西堀岳夫氏エッセイ Essay by Mr.Nishibori

雪富士

1957年12月、T君から電話があった。彼が学生時代共に山に登った岳友で、当時TBSの報道部に勤務していた。この年の暮れ「ゆく年くる年」の番組制作で富士に登る企画があるので…、ということであった。東京のスタジオと富士山頂とをむすんで南極をしのぶ、というカットである。ちょうどこの年は南極昭和基地で日本隊が初めて越冬する年であり、越冬隊長が父であったために、私に声がかかった次第である。  冬の富士は冬山の訓練に適しており、学生時代になんどか行っていた。きびしい寒さや、激しい風、氷の急斜面での滑落停止訓練などでしごかれた。しかし今回は、あまり冬山登山の経験のないアナウンサーや技術者と同行するので困難が予想された。しかもかならず頂上に達しなければ「ゆく年くる年」が成立しなくなるので緊張感があった。  第一日目は1合目から登りはじめ、5合目の佐藤小屋に泊る。翌日山頂に向かう。天気は晴れていたが、冬富士の特徴である北西の風が強く、ときおりゴーッというジェット機の爆王のような音とともに烈風が我々一行を吹き飛ばしにかかる。フジの蒼氷は有名で、アイゼンの歯も刺さらず、ひとたび滑落すると止めようがない。ピッケルを支えに身体を斜面に伏せてやりすごす。ときには斜面からはがされて体が浮き上がる。  つらいきびしい登りの果てに、ようやく山頂の剣が峰にある測候所にたどりついた。測候所の中は暖かく快適であったが、風の音が終日ゴーゴーとうなり、不気味である。夜、はるか下界に沼津の街明かりがゆらめき、交差する中心部の道路が十字架のように見えた。  1957年の大晦日、森繁久弥さんの総合司会で放送がはじまる。スタジオの幸田 文さんが富士山頂のわれわれと交信する。南極からはあらかじめメッセージが届けられていた。残念ながら、当時は無線(トンツー)の時代であったので、音声による東京と富士山頂と南極の3元交信はできなかったのである。しかしスタジオとの交信はクリアで、気象のきびしさ、寒さのことが話題の中心で、厳冬期の富士山頂は昭和基地と比較するに良い場所に思えた。  苦しい登攀にたいして1~2分の短い放送であったが、その後、緊張から開放され、のんびり富士山頂の大晦日を楽しんだ。  翌、1958年の元旦、日本で一番高い極寒の山頂で初日の出を拝んだ。寒さに足踏みすると雪がギシギシ鳴った。そして、だれよりも早く、すばらしい新年を大感激で迎えた。

Vol. 9

はじめての北アルプス

私がはじめて山に登った(?)のは、2~3 歳のころ。父のリュックから顔を出し、背負われて登った。どこの山だったのか、多分京都の北山のどこかであったのだろう。 父は日本の登山の黎明期に活躍した人であったから、家族とともに山に登ることも楽しみであったのだろう。私には2 歳年上の姉がいたが、私の初登山のときも、姉は小さなナーゲル(鋲靴)をあつらえてもらってはいていたという。 私が大学受験で浪人中の夏、父と山に登ることになった。北アルプスの穂高岳である。上高地から梓川にそって徳沢、横尾とすすみ、涸沢に入リテントを張る。終戦後間もないころであったので、夏だというのに、今とちがって穂高周辺にはほとんど登山者の姿はなかった。 私にとってもはじめての本格的な山登リであったので、徳沢ののどかな牧場のさきにそびえる穂高や明神の岩峰、そして雪渓など素晴らしいアルプスの風景に目をみはり、感動の連続であった。 快晴の朝、ザイテングラートから奥穂高岳に登頂‘頂上から見下ろす岳沢から上高地への雄大な景観に感激。梓川の流れが見える。下リは吊リ尾根を通リ、前穂高を経て、北尾根の5.6 のコルから直接涸沢に降リるルートをとる。 これは一般ルートではなく、上級者むけのルートである。初心者の私は、ピッケルはもっていたが、その扱いになれておらず、コルから雪渓を下リはじめてすぐに転倒し、仰向けになって滑リ落ちはじめる。 なすすべもなく、どんどんスピードを増し、危険なガレ場にむかっていく。そのとき、先におリていた父がガレ場のすこし上で私に飛びついて、抱きとめた。慣性の法則で二人のスピードは落ち、ゆる<ガレ場にすペリこんで止まった。かなリむちゃな指導ではなかったか。 その夜‘焚き火をかこんで父が「山の洗礼を受IIたのだ、今後おまえは山で遭難はしない」と。山の霊気の中でのきびしい洗礼であった。それ以債.仏は四季をつうじて、いろいろな山に登ってきたが、今日まで大きな怪我もなく過ごしてこられた。 それは、このできごとがあったからだと、いまでも信じている。また、同時に山のすばらしさ、魅力、そしてその裏にある危険をも学んだ山行きであった。

Vol. 8

渓流釣り60年

新緑の梢ごしに見える青空、耳にここちよい瀬音、つぎのポイントでは、あの落ちこみには…と期待をこめて釣り登っていく醍醐味、岩となり木となって自然にとけこみ、息をつめて竿をふりこむ一瞬…。木もれ陽が、渓流の白泡の消えるあたりにチラチラとおどる。この魅惑の虜になってからもう何年になるであろうか。84歳になった今も、禁漁が明けると極細の仕掛けを作るなど、いそいそと準備をし、出かける。  最近ではふたまわり以上も若い釣友と車で、伊豆の河津川の源流部や群馬の吾妻川水系、ときには盛岡まで足をのばす。しかし、車からおりてすぐに釣りはじめられるほど林道が奥にまでのびた今では、そのぶん魚影はうすくなっているので大釣りは望めない。また、その気もない。釣果がゼロでなければ1尾か2尾でも大満足なのである。  半世紀も前、夏の黒部川の源流、当時は雲の平から薬師岳までのルートでは他のパーティに会うこともなく、一軒の山小屋もないほどに人里から遠い山城であった。イワナの魚影も濃く、警戒心もうすいので、身をひそめることもなく竿を振れば、尺イワナが竿をしならせるという良き時代であった。途中、薬師沢の出会いでテントを張り、夕食の支度をしている間に必要な数だけ釣って、味噌汁に塩焼きにとぜいたくに食卓をにぎわしたものだ。翌日、薬師沢を釣りながら登り薬師岳にむかう。薬師岳のカールでのキャンプでも焚き火をかこむ夕食にはイワナがぜいたくに供された。その後、無事薬師岳の登頂を終え、有峰を経て富士にくだった。豊かな青春の山旅であった。  その後、野呂川に足しげく通うようになる。この川は南アルプスの間ノ岳に源を発して、北岳を時計まわりにぐるっとまわって流れくだり、途中早川と名を変え富士川に流入する花崗岩の白い砂礫で明るく開けた谷である。北岳の表の登山口が東側の広河原とすれば、野呂川を遡行して西側にまわり、両俣から登る裏ルートもある。やはり半世紀前に入ったこの谷はイワナの宝庫であった。仙丈沢の出会いに幕営して竿をだすと尺もののイワナが入れ食い状態で釣れた。焚き火で焼き枯らして持ち帰り、新妻によろこばれたこともあった。  また、大井川の源流、椹島をベースに聖沢や明石沢でイワナを思う存分釣ったのも忘れがたい想い出で、今でも目にうかぶ。  老境に入った今、これらの釣旅のときめきを胸に、イワナよりやや下流のアマゴやヤマメの谷に入り、瀬音をききながら、より敏感で繊細な魚を追い続けている。

Vol. 7

忘れ得ぬ山岳部の先輩たち Unforgettable seniors in Mountain club

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