やまなみロゴ

西堀氏エッセイ一覧 Essay by Mr.Nishibori

雪富士

1957年12月、T君から電話があった。彼が学生時代共に山に登った岳友で、当時TBSの報道部に勤務していた。この年の暮れ「ゆく年くる年」の番組制作で富士に登る企画があるので…、ということであった。東京のスタジオと富士山頂とをむすんで南極をしのぶ、というカットである。ちょうどこの年は南極昭和基地で日本隊が初めて越冬する年であり、越冬隊長が父であったために、私に声がかかった次第である。  冬の富士は冬山の訓練に適しており、学生時代になんどか行っていた。きびしい寒さや、激しい風、氷の急斜面での滑落停止訓練などでしごかれた。しかし今回は、あまり冬山登山の経験のないアナウンサーや技術者と同行するので困難が予想された。しかもかならず頂上に達しなければ「ゆく年くる年」が成立しなくなるので緊張感があった。  第一日目は1合目から登りはじめ、5合目の佐藤小屋に泊る。翌日山頂に向かう。天気は晴れていたが、冬富士の特徴である北西の風が強く、ときおりゴーッというジェット機の爆王のような音とともに烈風が我々一行を吹き飛ばしにかかる。フジの蒼氷は有名で、アイゼンの歯も刺さらず、ひとたび滑落すると止めようがない。ピッケルを支えに身体を斜面に伏せてやりすごす。ときには斜面からはがされて体が浮き上がる。  つらいきびしい登りの果てに、ようやく山頂の剣が峰にある測候所にたどりついた。測候所の中は暖かく快適であったが、風の音が終日ゴーゴーとうなり、不気味である。夜、はるか下界に沼津の街明かりがゆらめき、交差する中心部の道路が十字架のように見えた。  1957年の大晦日、森繁久弥さんの総合司会で放送がはじまる。スタジオの幸田 文さんが富士山頂のわれわれと交信する。南極からはあらかじめメッセージが届けられていた。残念ながら、当時は無線(トンツー)の時代であったので、音声による東京と富士山頂と南極の3元交信はできなかったのである。しかしスタジオとの交信はクリアで、気象のきびしさ、寒さのことが話題の中心で、厳冬期の富士山頂は昭和基地と比較するに良い場所に思えた。  苦しい登攀にたいして1~2分の短い放送であったが、その後、緊張から開放され、のんびり富士山頂の大晦日を楽しんだ。  翌、1958年の元旦、日本で一番高い極寒の山頂で初日の出を拝んだ。寒さに足踏みすると雪がギシギシ鳴った。そして、だれよりも早く、すばらしい新年を大感激で迎えた。

Vol. 9

はじめての北アルプス

私がはじめて山に登った(?)のは、2~3 歳のころ。父のリュックから顔を出し、背負われて登った。どこの山だったのか、多分京都の北山のどこかであったのだろう。 父は日本の登山の黎明期に活躍した人であったから、家族とともに山に登ることも楽しみであったのだろう。私には2 歳年上の姉がいたが、私の初登山のときも、姉は小さなナーゲル(鋲靴)をあつらえてもらってはいていたという。 私が大学受験で浪人中の夏、父と山に登ることになった。北アルプスの穂高岳である。上高地から梓川にそって徳沢、横尾とすすみ、涸沢に入リテントを張る。終戦後間もないころであったので、夏だというのに、今とちがって穂高周辺にはほとんど登山者の姿はなかった。 私にとってもはじめての本格的な山登リであったので、徳沢ののどかな牧場のさきにそびえる穂高や明神の岩峰、そして雪渓など素晴らしいアルプスの風景に目をみはり、感動の連続であった。 快晴の朝、ザイテングラートから奥穂高岳に登頂‘頂上から見下ろす岳沢から上高地への雄大な景観に感激。梓川の流れが見える。下リは吊リ尾根を通リ、前穂高を経て、北尾根の5.6 のコルから直接涸沢に降リるルートをとる。 これは一般ルートではなく、上級者むけのルートである。初心者の私は、ピッケルはもっていたが、その扱いになれておらず、コルから雪渓を下リはじめてすぐに転倒し、仰向けになって滑リ落ちはじめる。 なすすべもなく、どんどんスピードを増し、危険なガレ場にむかっていく。そのとき、先におリていた父がガレ場のすこし上で私に飛びついて、抱きとめた。慣性の法則で二人のスピードは落ち、ゆる<ガレ場にすペリこんで止まった。かなリむちゃな指導ではなかったか。 その夜‘焚き火をかこんで父が「山の洗礼を受IIたのだ、今後おまえは山で遭難はしない」と。山の霊気の中でのきびしい洗礼であった。それ以債.仏は四季をつうじて、いろいろな山に登ってきたが、今日まで大きな怪我もなく過ごしてこられた。 それは、このできごとがあったからだと、いまでも信じている。また、同時に山のすばらしさ、魅力、そしてその裏にある危険をも学んだ山行きであった。

Vol. 8

渓流釣り60年

新緑の梢ごしに見える青空、耳にここちよい瀬音、つぎのポイントでは、あの落ちこみには…と期待をこめて釣り登っていく醍醐味、岩となり木となって自然にとけこみ、息をつめて竿をふりこむ一瞬…。木もれ陽が、渓流の白泡の消えるあたりにチラチラとおどる。この魅惑の虜になってからもう何年になるであろうか。84歳になった今も、禁漁が明けると極細の仕掛けを作るなど、いそいそと準備をし、出かける。  最近ではふたまわり以上も若い釣友と車で、伊豆の河津川の源流部や群馬の吾妻川水系、ときには盛岡まで足をのばす。しかし、車からおりてすぐに釣りはじめられるほど林道が奥にまでのびた今では、そのぶん魚影はうすくなっているので大釣りは望めない。また、その気もない。釣果がゼロでなければ1尾か2尾でも大満足なのである。  半世紀も前、夏の黒部川の源流、当時は雲の平から薬師岳までのルートでは他のパーティに会うこともなく、一軒の山小屋もないほどに人里から遠い山城であった。イワナの魚影も濃く、警戒心もうすいので、身をひそめることもなく竿を振れば、尺イワナが竿をしならせるという良き時代であった。途中、薬師沢の出会いでテントを張り、夕食の支度をしている間に必要な数だけ釣って、味噌汁に塩焼きにとぜいたくに食卓をにぎわしたものだ。翌日、薬師沢を釣りながら登り薬師岳にむかう。薬師岳のカールでのキャンプでも焚き火をかこむ夕食にはイワナがぜいたくに供された。その後、無事薬師岳の登頂を終え、有峰を経て富士にくだった。豊かな青春の山旅であった。  その後、野呂川に足しげく通うようになる。この川は南アルプスの間ノ岳に源を発して、北岳を時計まわりにぐるっとまわって流れくだり、途中早川と名を変え富士川に流入する花崗岩の白い砂礫で明るく開けた谷である。北岳の表の登山口が東側の広河原とすれば、野呂川を遡行して西側にまわり、両俣から登る裏ルートもある。やはり半世紀前に入ったこの谷はイワナの宝庫であった。仙丈沢の出会いに幕営して竿をだすと尺もののイワナが入れ食い状態で釣れた。焚き火で焼き枯らして持ち帰り、新妻によろこばれたこともあった。  また、大井川の源流、椹島をベースに聖沢や明石沢でイワナを思う存分釣ったのも忘れがたい想い出で、今でも目にうかぶ。  老境に入った今、これらの釣旅のときめきを胸に、イワナよりやや下流のアマゴやヤマメの谷に入り、瀬音をききながら、より敏感で繊細な魚を追い続けている。

Vol. 7